シン・エヴァンゲリオン劇場版 𝄇
注意:この記事には本編のネタバレがあります。
※ 上映直後に思いのままを書き綴っています。
あくまで一個人の感想であり勝手な解釈です。
エヴァを見てどういう感想を抱き、どういう考察をし、どう解釈するか、それは全ての人の自由です。
人の数だけ感想と考察と解釈があっていい。
ここにあるのは、あくまで私が一発目に見た直後の感想と解釈です。
もしかしたら細かい考察をしたり、もう一度見返して描写を確認したりしたら、全然違うかもしれません。
しかし、少なくとも、私は一回目を見た直後はこういう感想を抱き、こういう解釈をしました。
この記事は、ただそれだけの記事です。
さよなら、エヴァンゲリオン。
やー、このキャッチコピーがまさにふさわしい、全てのエヴァンゲリオン好きのための、全てのエヴァンゲリオンに囚われている人を呪縛から解放するための映画でしたね。
僕なんかはまだ、エヴァ直撃世代でありながら、そんなにエヴァに思い入れが強いワケではなく、どちらかというと「みんなが見てるから見てる」勢の人間なんですよ。だからまだ冷静に客観的に見れたんですけど、これ、中学生のときにリアルタイムで最初のテレビ放送見ていて、今30代後半の人で、かなりエヴァに思い入れが強い人が見たら、劇場で号泣するんじゃないか?
実際、僕の2つ上の友人や、6つ上の事業部長は、「人生に一つの大きな区切りがついた」という何とも感慨深い書き込みをしていましたが、その意味がわかりました。
思い入れ強い人からしたら、「よくぞ終わってくれた!」「よくぞ終わらせてくれた!」っていう感慨深い想いでいっぱいでしょうね。
ていうか、この映画そのものが、もう本当に「エヴァンゲリオンを終わらせるための映画」なんですよ。
そういう仕掛けが随所にあります。
一種のメタ的な映画ですね。ストーリーの中の登場人物たちの物語というより、見ている我々視聴者の物語を完結させるための映画です。
エヴァの呪いにかかって、25年間カオスの中を彷徨っている亡霊たち。そしてその彷徨う人の中には、庵野秀明自身も含まれていたんじゃないでしょうか。
Qまで見たときは、庵野監督はエヴァを終わらせる気なんかなくて、わざとわからないもの、決着しないものを作って、我々を掌の上で弄んで笑っているんじゃないかと思っていたんですが、今回の映画を見て、あぁ、庵野監督自身も、エヴァを終わらせたかったんだ。終わらせるための着地点を、25年ずっと探してて、でも見つからなくてもがいてたんだ。そして、今回それをようやく見つけることができたんだ。
と、そう思いました。
序盤でケンスケたちが住む平和な空間の外の赤い世界で、ウロウロと彷徨っている首のないエヴァンゲリオンが大量に描かれていましたが、あれは我々視聴者、より厳密に言うと25年間エヴァに囚われているエヴァファンたちの姿のメタファーなんじゃないかと思いました。そして、その中には庵野監督自身も含まれていると。
それが最終盤、全部人に戻るワケですよ。それも老若男女様々な人に。どれもこれも安らかな顔をしています。あれは見ている僕たちを表しているんじゃないでしょうか。
この『シン・エヴァンゲリオン劇場版 𝄇 』は、
シンジとアスカとレイとカヲルとゲンドウとユイのための物語であり、
我々視聴者のための物語であり、
庵野監督自身のための物語である、と。
僕はそう感じました。
まず、物語の中で呪縛に囚われている、アスカとレイとカヲルとゲンドウの物語に、全て決着を付けたのが、本当に素晴らしかったです。
エヴァの、人類補完計画についての物語って、旧劇場版でシンジくんが他者の存在を望んだことで、一度一体化した人類が再び分離するって結末を迎えて、無事完結してるんですよ。
ところが、エヴァのそれぞれのキャラクターの心の物語って、25年間何も解決していなかったんですよね。シンジもアスカもレイもカヲルもゲンドウも、25年間ずっとトラウマを抱えたまま。ずっと闇の中にいたままで、何も完結していなかった。
それが今回完結したんです。全員が心の物語に決着をつけて、全員が救われて、全員が前に進めたんです。しかも、その導き手になったのが、他ならぬ主人公のシンジなワケですよ。
そして、その鍵になったのが「マリ」です。
シンジたちは僕ら目線で見ても25年間心の闇に囚われてましたし、カヲル君の言うように物語の設定としても実際ループしていたんでしょう。そのループを抜け出す鍵になったのが、異分子である「マリ」です。今までのループでは存在しなかったマリが登場することで、物語はループから抜け出すために動き出した。
このことは、マリが破で登場したときにS-DATのトラックが26曲目から27曲目へと進んだことからも明らかでしょう。
そしてそれは見ている僕らからしても同じ。
僕ら視聴者をエヴァの呪縛から解き放つためには、アスカやレイなど、元々エヴァの世界にいた人物じゃダメなんです。彼ら彼女らがいくら頑張ったところで、それは僕らにとって「エヴァの世界の中でエヴァのキャラクターが頑張っている」に過ぎないから。
ところが、僕らの知らない、僕らにとってのエヴァの世界にはいないキャラクターが、異分子が入り込むことで、僕らも囚われていた昔からのエヴァの世界から抜け出せるんです。
異分子である彼女が手を差し伸べて、シンジを、視聴者を、ループから引っ張り上げる。
それがこの新劇場版のメインテーマじゃないでしょうか。
「首輪」も前回から引き続き象徴的なアイテムとして描かれていましたね。
アレは僕はちょっと正確には消化しきれなかったんですけど、おそらくは贖罪の象徴なんでしょう。
シンジは、アスカとレイとカヲルとゲンドウの物語の決着を付ける代償として、自分自身も消えるつもりだったんじゃないでしょうか。
ゲンドウがやったことの落とし前は自分が付けるって言ってたし。
波打ち際のアニメがどんどん絵コンテになって下書きになっていった場面がそれです。
それを助けたのもまた真希波なワケです。
彼女は我々視聴者をエヴァのループから抜け出させるためのキャラクターでもあり、物語の決着の代償として消えるはずだったシンジを救うためのキャラクターでもあるワケです。
最後、学生のまま幸せそうに過ごすアスカ、レイ、カヲルを尻目に、スーツを着て声変わりをして、真希波の手を取って走り出すシンジ。
アレは、自分の手でエヴァンゲリオンという物語はハッピーエンドで終わらせた。永遠に大事な宝物になった一方、自分自身はそこから卒業して大人になっていくということでしょうか。
最後の映像がアニメじゃなくて実写なのもそうです。エヴァンゲリオンという世界は終わり、みんな大人になって現実に帰っていく。
それは多分「いつまでもアニメなんか見てないで大人になれ」ということではなくて「この物語はひとまずこれで終わったから、みんな前に進もう」ということだと思います。エヴァを見終わった後、別なアニメにハマってもいい、エヴァをもう一回見直してもいい。でも、エヴァという物語は、ひとまずこれで終わったよ、と。
みんな心の中に、闇を抱えたままの14歳のシンジくんがいたんだと思います。あるいは、14歳のままのアスカが、レイが。でも、彼らはもういない。闇を晴らして、大人になって、走り去って行きました。
ていうか、もう、シンジくんが大人になったっていうのが感慨深いですよね。
や、ここで言う大人になったっていうのは、最後の声変わりしてスーツ着てたとこじゃなくて、精神世界の中でゲンドウ・アスカ・レイ・カヲルを導いていたシンジくんを指してます。精神的に大人になったってことです。あそこ、シンジくんが永遠の14歳から抜け出したシーンだと思うんですよ。
ゲンドウが「いつの間にか大人になっていたんだな」って言うシーンで泣きそうになりました。
少年として成長し続けるシンジくんは何度か描かれていましたが、14歳から抜け出して大人になったシンジくんはマジで初めて描かれたんですよ。
シンジくんは永遠の14歳でした。25年間ずっと。だから僕らの心の中にも14歳の少年がいた。36歳、38歳、40歳になった今でも。エヴァはずっと終わっていなかった。だって心の中のシンジくんはいつまでも14歳のウジウジした少年のままなんだもん。
でも今回、シンジくんは永遠の14歳から抜け出して大人になりました。僕らの心の中のシンジくんも14歳じゃなくなりました。だからエヴァンゲリオンはもう終わりなのです。エヴァは、シンジくんが14歳だからこそ成り立っていた物語なので。14歳という不安定な心の中を描いていた物語だったんで。
新劇場版でエヴァパイロットが14歳から歳を取らないってのも象徴的ですよね。アレも、25年間エヴァに囚われている視聴者を、庵野監督自身を象徴しているんでしょうね。
もちろん、エヴァはもう終わったから振り返ってはいけないというワケではなく、僕らも少年時代を思い出すように、古いアルバムを引っ張り出して眺めるように、同窓会で友達と飲みに行くように、何度だって振り返っていい。何度でも見返して楽しんでいい。
でも、もう決着は付きましたよと。あなたたちが抱えていた心の中のモヤモヤは、もう払拭されましたよと。
あなたの心の中で闇を抱えてうずくまっていた14歳の少年は、もういませんよと。もう、闇を晴らして、前へと歩き出して、あなたの心の中から出て行きました。だから、あなたも前に向かって歩き出しましょう。終わったことは、美しい思い出として、大事に心の中にしまったまま。
そして、私もそうします、と。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版 𝄇 』は、そういう物語だったんじゃないでしょうか。