バガボンド
自分は兼ねてより、バガボンド20巻の「佐々木小次郎 vs. 猪谷巨雲」を読んで以来、男の友情の究極の形は「殺し合い」なのではないか?という仮説を抱いている。
かなりブッ飛んだ極論だが、なぜそう考えたのか。
ちょっと紐解いていこう。
男の友情が「尊敬」だとしたら、最も尊敬できる相手は誰なのか?
近年ネット社会になり、恋愛論的な男女の違いみたいな言説がかなり幅広く認識されるようになってきて、「男の友情は『尊敬』、女の友情は『共感』」という考え方は割と常識的なものになってきた。
この理論に関しては色んな所で紹介されてるから、敢えて解説はしない。
男の友情が『尊敬』から生み出されるとしたら、男が最も相手を『尊敬』するのはどんなときなのだろうか?
一緒の目的に向かって肩を並べて戦う「仲間」に対してだろうか?
違う。
男が最も尊敬する相手。
それは、強力な 敵 なのだ。
仲間として横に並んでいるとき、彼の力は自分ではない第三者に向けられている。
その場合、その人の力を客観的視点でしか評価できない。
ところが、敵として真正面からその人の力を受けているとき、
そのときだけは、その人の力がどんなものなのか、身を以って心の底から知ることができる。
そしてその力が、弛まぬ鍛錬の成果であったり、美しい技術を持つものであったり、凄まじい信念の込められたものであったりすることを、他ならぬ自分の肌で体感したとき、男にとって最も大きな 尊敬 の念が生まれるのだ。
最も人間の全力を知ることができるのは、「命を賭けている」とき
男にとって最も尊敬の感情が生まれやすい「相手」が、自分に真正面から力をぶつけてくる「敵」だとしたら、
男にとって最も尊敬の感情が生まれやすい「状況」は、一体どんな状況なのだろうか?
言わずもがな、その人間の、一番の全力が見られる状況である。
それはつまり、その人が、底の底の底の力まで出し切って、全てを賭けている状況。
スポーツの大事な試合とか、大切な人を守らなければならない状況もそれに近いだろうけど、最もわかりやすい状況が、
自分の命を賭けている状況 だ。
なんてったって負けたら死ぬのだから、全力を出さざるを得ない。
それも誰かに強制的に命を賭けさせられて死の恐怖に怯えながら戦っているのならともかく、自分の誇りとしている分野で自分の力を試すために自ら進んで背水の陣を敷いているとしたら、これほど人間の全力が出る状況は無い。
つまり、最も人間の全力を知ることができるのは、相手が 自分の命を賭けている 状況、ということになる。
相手と「敵同士」であり、お互いに「命を賭けている」状況。つまり…
そしてお互いがそういう状況だとしたら?
自分と相手がお互いに真正面から力をぶつけ合う「敵同士」であり、
お互いが「命を賭けている」ために全力を出さざるを得ない状況に置かれている。
つまりは、「殺し合い」である。
相手は全力で自分の命を取りにきており、自分も全力で相手の命を取ろうとしている。
そんな状況だとしたら、否が応でも相手の力を実感せざるを得ない。
そして、その相手が強ければ強いほど、尊敬の念は大きくなる。
つまり、結論として、男が最も相手を尊敬し、『友情』を感じる究極の状態は、その相手と「殺し合い」を演じているとき、ということになる。
奇妙な仮説だが、男の友情が尊敬から成り立っており、その尊敬は横に並んで客観的に力を見ているよりも真正面からその人の力を受けているときの方が感じやすく、かつ、人間が最も全力を出せる状況=命が賭かっている状況だとしたら、この方程式は成り立つことになる。
剣に生きる男たちの奇妙な友情
とはいえ、現代の日本社会で双方が合意の上での「殺し合い」なんてそうそう発生するはずもないので、この理論は極論であり、物理の試験の「摩擦は無視できるものとする」ぐらい意味のない机上の理想論だ。
「現代の日本社会」では。
ほんの数百年前、現実に存在していた「戦国の世」では実際にあったかもしれない、この究極の友情の形を、見事に描いたのが、バガボンド20巻に収録されている、「佐々木小次郎 vs. 猪谷巨雲」の戦いである。
猪谷巨雲にとって、目の前にいる小次郎は、己の親同然の師匠と実の弟を斬り殺した憎い仇のはずである。その小次郎を相手に、巨雲は実に楽しそうに、本当に心の底から楽しそうに戦うのだ。
それに応えるように、小次郎もまた心の底から楽しそうな表情を浮かべ、楽しそうな笑い声を上げながら、命の取り合いの真剣勝負に臨む。
2人の戦いを側から眺める新二郎は、そんな二人を見て、「狂っている」「理解できない」と苦悩する。そりゃあそうだ。親と弟の仇と、自分を殺そうとしている相手と、殺し合いをしているのに、どうしてそんなに楽しそうなのだ。
おそらく当人たちだって、もし新二郎の立場にいたらきっと理解できない。刀を交えるうちに偶然にその境地に辿りついてしまったから、理解ってしまっただけなんだ。
命を取り合うギリギリの勝負で、相手も自分も強いからこそ、刃を合わせれば合わせるほどに、自分も相手もどんどん強くなる。どんどん成長していく。相手を心底尊敬できるし、自分のこともどんどん好きになる。そりゃあ、楽しくてしょうがないはずだ。
側から見ている人間には絶対にわからなかっただろうが、このときの二人は確かに友情を感じていたし、至上の極楽の中にいた。
必ず迎えなければならない、悲しい終わり
このエピソードで自分が最も印象に残っているのは、この巻の最後のページだ。
死闘の果て、勝負を制し生き残った小次郎は、自分が斬り殺した巨雲の傍に立ち尽くし、そして、
泣いているのである。
究極の友情を感じた相手を、永遠に失ってしまった悲しみ。
命のやりとりだからこそ、これほどの友情を感じることができたけれども、命のやりとりだからこそ、その終わりには必ずどちらかの「死」が待っている。どちらかがどちらかの存在を永久に失わなければいけないのだ。
泣くぐらいなら、殺さなければいいじゃないかと思うかもしれない。
でも、お互いに本気で命の取り合いをしていたからこそ、この境地にまで辿りつけたのだ。結末にどちらかの「死」がなければ、この友情は成し得なかった。
矛盾してるし、奇妙だけど、そういうものなのだ。
小次郎も、巨雲も、できることなら永遠に刃を交わしていたかっただろう。
「友情」を描いた20巻
この20巻が、1冊丸々「友情」をテーマに描かれているのは間違いない。
実際に最後の最後に、
「小次郎、友達はできたか?」
「俺たちは、抱き締めるかわりに斬るんだな」
と、言葉にしてハッキリと語られている。
鐘巻自斎の「小次郎、友達はできたか?」の言葉のあとに、ページをめくると、巨雲の死体の傍に佇んで泣いている小次郎が描かれているというのが、たまらなく切ない。
この理論は机上の空論なのか?
自分は剣に命を賭ける佐々木小次郎や宮本武蔵とは程遠い平和主義者なので、殺し合いはもちろんのこと、スポーツや仕事ですらこういった友情は感じたことがない。
だから完全に理屈を捏ね繰り回しただけの机上の空論なんだけど、
スポーツや仕事に命を賭けて誰かとぶつかり合ったことがある人は、これと近い友情を感じたことがあるのかな?
北斗の拳の名言にも、「やはりお前も強敵(とも)だった」という台詞がある。
ドラゴンボールでも悟空の一番の親友になるのはピッコロでもクリリンでもなくベジータだ。
様々な名作でも似たような友情の形が描かれていることを考えると、この理論はあながち間違っていないのかもしれない。