ドラゴンクエストⅣ
昨年末、ドラクエウォークでDQ4のイベントが行われていたのですが、
その結末が完全にPS版準拠でした。
自分はFC版のドラクエ4のストーリーが大好きで、
それゆえにPS版のリメイクで改変されたストーリーには納得いかないんだけど、
今回のドラクエウォークではそのリメイク版のストーリーが採用されていたので、
だいぶモヤモヤしたのでした。
いったいFC版とPS版のストーリーにはどのような違いがあるのか?
自分はどうしてFC版の方が好きで、PS版に納得がいかないのか。
そのあたりを、解説していきたいと思います。
FC版ドラクエ4のストーリーは?
FC版ドラクエ4のストーリー
FC版ドラクエ4の第5章は、主人公である勇者の村が魔族の長であるピサロに滅ぼされるところから始まります。
生まれ育った村のみんなが皆殺しにされ、幼馴染の恋人(女主人公の場合は親友)も自分の身代わりに殺されてしまいます。
絶望の中、一人旅立つ主人公。
ここで流れるフィールド曲「勇者の故郷」が主人公の絶望と孤独を表現してて切なすぎます。
旅の中で、勇者は仲間たちと出会い、最後の一人、ライアンが仲間になったときに、フィールド曲は勇猛果敢な名曲「馬車のマーチ」に変わります。
ここの曲の変化は、勇者の心の変化をそのまま表現しているようで、とても好きです。
一方その頃、魔族の長のピサロは、恋人のロザリーを人間に攫われてしまいます。
ルビーの涙を流すエルフであるロザリーは、悪しき人間の恰好の標的でした。
攫われたロザリーは、ルビーの涙を流させるために、欲深い人間たちに殴る蹴るの暴行を受け続けます。
駆けつけたピサロによってロザリーを攫った人間たちは皆殺しにされますが、時すでに遅し。ロザリーはピサロの腕の中で息絶えます。
怒りの炎に燃えるピサロは、人間たちを根絶やしにするという決意をより強固なものにするのでした。
そして物語終盤。勇者が魔王の本拠地である闇の世界を訪れると、魔王配下の四天王の一人、エビルプリーストが、このような独白をします。
ほう ついに ここまできたか ゆうしゃよ。しかし すべては おそかったようだな。もうすぐ デスピサロさまが わが まぞくの おうとして めざめるだろう。デスピサロさまの こころには もはや にんげんに たいする にくしみしか のこっておらぬはず。めいどのみやげに おしえてやろう。ロザリーを さらわせたのは このわたしなのだ。わっはっはっ!
そんなエビルプリーストをはじめとした魔王配下の四天王を倒し、進化の秘法でもはや別の存在となったピサロ…デスピサロの元に辿り着いた勇者たち。自我を失ったデスピサロは、こう言って勇者たちに襲いかかってきます。
わたしは デスピサロ。
まぞくの おうとして めざめたばかりだ。
うぐおおお……!
わたしには なにも おもいだせぬ……。
しかし なにを やるべきかは
わかっている。
があああ……!
おまえたち にんげんどもを
ねだやしにしてくれるわっ!
何もかも、ロザリーのことすら忘れてしまったデスピサロの台詞が、非常に物哀しいです。
そして、そんなデスピサロを打ち果たし、勇者たちは平和を取り戻すのでした。
FC版ドラクエ4に込められたメッセージ性
なんとも考えさせられるストーリーですね。
今までの人間が善、魔物が悪という単純な勧善懲悪のドラクエと違って、本当に悪いのは誰なのか、悪とは何なのか、一筋縄ではいかない複雑でメッセージ性の強い作品になっています。
ピサロはロザリーが暴行され、殺されたことに激しい怒りを燃やしていましたが、自分も勇者に同じことをしているのです。
魔族に故郷を滅ぼされ、恋人を殺された勇者。
人間に迫害され、恋人を殺された魔族の長。
この対比が、ドラクエ4の何とも言えない切なさを生み出しています。
エビルプリーストは確かに人間を唆しましたが、彼は背中を押しただけ。
そもそも元々ロザリーは欲深な人間たちに狙われていたので、やはりロザリーを殺し、デスピサロ誕生の引き金を引いたのは、人間の欲の深さと愚かさと言っていいでしょう。
ピサロが最初に「世界を征服し、人間を根絶やしにする」と決意した動機は深くは語られていませんが、それもロザリーを狙う人間たちへの憎しみが募ったものだとしたら、やはり今作の魔王を生み出したのは人間自身だと言えそうです。
人間の愚かさが生み出した悲劇の魔王、ピサロですが、怒りに我を忘れた彼は、自分がされて嫌だったことを人間にしてしまいます。勇者の大切な人であるシンシアを奪ったピサロは、その後、自分も同じように大切な人であるロザリーを奪われてしまいます。
まさに因果応報ですが、ラスボスであるデスピサロを打ち倒したとき、何とも言えない虚しさを感じてしまったのは、自分だけでしょうか…。
PS版ドラクエ4のストーリーは?
PS版ドラクエ4のストーリー
PS版ドラクエ4のストーリーも、大筋はFC版と同じですが、終盤、闇の世界にたどり着いた後、魔王配下の四天王 エビルプリースト と対峙するところからが大きく違います。
PS版でのエビルプリーストの台詞はこうなっています。
ほほう……?とうとうここまで来よったか。
しかし今では遅すぎたようだな。 デスピサロは進化の秘法を使い、究極の進化をとげ、やがて異型の者となり目覚めるだろう。 変わり果てたやつの心には、もはや人間に対する憎しみしか残っておらぬはず。 そしてデスピサロは二度と魔族の王に君臨することなく、みずから朽ち果てるのだ!!
めいどのみやげにお前たちにも教えてやろう! 人間どもを利用し、ロザリーをさらわせたのは このわたし! このエビルプリーストさまなのだ!
FC版ではあくまでデスピサロへの忠誠心ゆえに、デスピサロを真の魔族の王にするためにロザリーを攫わせていたエビルプリーストですが、PS版ではデスピサロを陥れ、破滅させ、自分が魔王になるため、と、動機とキャラクター付けが180° 変わってしまっています。
第6章
さらにPS版では普通にデスピサロを倒し一度エンディングを迎えた後、第6章という新章をプレイすることができます。
第6章の内容は、ロザリーを生き返し、ピサロを仲間にし、一緒にエビルプリーストを倒す というもの。
勿論、その後ピサロと戦うということもなく、エビルプリーストを倒したらめでたしめでたしでエンディングです。
FC版のメッセージ性を全て否定するPS版の第6章
こうやって対比させると、FC版で込められていたメッセージ性が、PS版の第6章では全て引っくり返されてしまっていることがわかります。
人間と魔族、どっちが悪か分からない、深くて考えさせられるストーリーが4の良さだったのに、「全部エビルプリーストが悪かったのでしたー」「悪者のエビルプリーストを倒したのでめでたしめでたしー」という、単純な勧善懲悪ものに逆戻りしてしまっています。
ピサロを巡る因果応報もなくなってしまっています。「ピサロが魔王に身を落とした背景は悲しいものだけれど、彼も人間の大切なものを奪うという許されざることをした。その罪は消えず、彼はその報いを受けることになる。」という、ドラクエ4で一番重要だった部分が、根こそぎ否定されています。
どんなに悔いても、ロザリーは生き返らないし、自我を失ったデスピサロは二度と元には戻らない。その無常観が4の良さだったのに、あっさりとロザリーは生き返り、ピサロも元に戻り、シンシアを殺した罪はなかったことになって、何の報いも受けず許されて終わり。
「こんなのドラクエ4じゃない!」と思うのは、自分だけでしょうか…。
ドラクエウォークで第6章が正史のように扱われたことへの不服
まぁ、今までは、所詮は第6章なんて正規ルートをクリアした後のおまけ、ただの if ストーリーだと思って気にしないようにしていたのですが、ドラクエウォークであたかもこの第6章こそが正史であるかのように扱われていたのが不服で、思わずこんな記事を書いてしまいました。
善と悪、憎しみの連鎖、因果応報、そんなものの深さと物悲しさを巧みに描いたドラクエ4が、自分は大好きなのです。
おまけ:勇者の動機は果たして憎しみだったのか?
ドラクエ4といえば、昔友人が「あれは勇者の復讐譚で、憎しみの物語だ」と言っていたのに対して、自分が「それは違うぞ!」と真っ向から反論して、議論になったことを思い出します。
友人曰く、「あれはピサロに家族恋人を皆殺しにされた勇者が、憎しみを動機に戦い、復讐を遂げるまでの物語だ」とのことですが、自分はそうは思えないんですよねぇ。
その理由は、勇者の2つのテーマ曲「勇者の故郷」と「馬車のマーチ」の曲調。
もしもドラクエ4のテーマが「憎しみ」なら、この2曲ももっと「怒り」や「憎しみ」を感じさせる曲調になっているはずです。
一つ目の、勇者が故郷を滅ぼした直後から流れ始める「勇者の故郷」。この曲からは、故郷を滅ぼされた怒りや憎しみといったものは感じられません。伝わってくるのはただただ 絶望。
勇者は家族友人を皆殺しにされたとき、憎しみではなくただひたすらに『絶望』を感じていたのではないでしょうか。
そして7人の導かれし者たちが揃った直後から流れ出す「馬車のマーチ」。この曲から感じるのはただただ純粋な 勇ましさ です。
この曲が憎しみに囚われた勇者の曲とは自分にはどうしても思えません。
導かれし者たちが揃ったとき、勇者が感じたのは、「もう二度と失いたくはない」という強い『決意』だったのではないでしょうか。
ピサロが憎くて戦うのではなく、もう二度と大切なものを失わないために戦う。
ドラクエ4は、全てを失って『絶望』した勇者が、導かれし者たちによって『希望』を再び手に入れ、もう二度とそれを失わないために、それを守るために戦う、そういう物語なんじゃないかと自分は思います。
第6章は『許し』の物語?
同じ目に遭ったのに、憎しみに囚われてしまったピサロと、憎しみではなく守るために戦った勇者の対比。
そう考えると、第6章にも意味があるような気がしてきます。
第6章では自分の家族と恋人を殺した憎い仇を許し、その許しの心によってピサロが改心し、『許し』を行うことでより良い結末を迎える。
そうだとしたら、ピサロを倒してしまったときは生き返らなかったシンシアが、ピサロを許したときは生き返る、とかのエンディングだったらよりメッセージがわかりやすくなっていいですねぇ。でも、それじゃあまんま 幻想水滸伝 だけど。
果たして第6章は単なる蛇足だったのか?
それとも「許し」をテーマに描いたより深いメッセージだったのか?
皆さんはどちらだと思いますか?