少年漫画の醍醐味と言えば、力と力のぶつかり合い。
しかし、時として、言葉や頭脳だけで、相手と火花を散らすこともある。
例えば、『からくりサーカス』の ルシール vs ドットーレ の心理戦。
息子の仇であるドットーレだけを葬り去るために、自分の命と引き換えに、相手の存在意義を根こそぎ奪い取るために巧みな悪魔の誘いを仕掛けるルシールの迫力は本当に凄い。心理描写や表情を鬼気迫る迫力で描ける、作者の 藤田 和日郎 の本領が存分に発揮された名勝負だ。
他に、個人的に大好きな少年漫画の舌戦が、
仙界大戦終盤、金鰲十天君を全員撃破し、敵の大将である聞仲を引き摺り出した崑崙の道士たち。しかし、聞仲の強さはあまりにも圧倒的だった。崑崙十二仙をたった一人で一網打尽にし、崑崙山の本丸に攻め込む聞仲。ついに、崑崙山の教主 元始天尊 と 聞仲が対峙するのだった―――。
とにかく絶望的だった聞仲の強さが印象に残ってる読者も多いだろう。飛びゆく魂魄を背景に「私が本気を出した以上、仙人界は今日滅亡する。」と聞仲が宣言するコマがトラウマになってる人も多いはずだ。だが、ここまで聞仲が強いと、読んでる側にはある一つの疑問が浮かんでくる。
―――これ、聞仲でいいんじゃないの?
封神計画は、悪意を持って人間界をめちゃくちゃにする悪しき仙人の妲己を倒して、人間界に平和を取り戻す計画だ。ならば、人間たちのことを思い、人間界を良くしようと己の手腕を振るう聞仲と敵対する必要はないはずだ。これだけ聞仲が強いのなら、崑崙の仙人も全員聞仲に協力して、聞仲と一緒に妲己を倒せば良かったんじゃないの―――?
その疑問を抱いたそのタイミングで、ちょうど 聞仲 vs 元始天尊 の舌戦が始まる。*1
聞仲「あなたが、崑崙山が教主、元始天尊様ですね?」
元始天尊『いかにも』
「では、殷のために消えていただく」
『痴れ者めが』
『殷のためと言えば何をしてもいいと思うてか。お主がやっていることはただの虐殺じゃ。』
「あなたにそれを言われる筋合いはない。太公望を使い、同じことをしているのはあなただ。」
「そう、あなたこそが全ての元凶。あなたを倒せば全て元の鞘に収まる。」
『ふん。お主がやっていることは「殷のため」ではなくて「お主自身のため」じゃろうて。』
『お主は殷の政をなんでも自分の思う通りに動かしてきた。幼少の王に自分の思想を刷り込むことによってな。それはすなわち支配じゃ。支配とは、他人を自分の色に染めることじゃからのう。お主は確かに純粋じゃよ聞仲。だが、その実態は妲己と同じく忌むべき存在となり果てておる。否定はできまい。人間界を裏で操る真の支配者。それがお主の正体じゃ。』
「言いたい放題だな。」
「だが、それの何が悪い。現に妲己が現れるまで人間界の統治は上手くいっていたではないか。」
「私なら未来永劫にわたって人間たちを幸せにすることができる。
わが子、殷の旗の下で!」
「それが人間たちのためでもあるのだ。」
『幸福か…。お主が作る箱庭で得られる永久の幸せ。たしかに人間たちはそれでも幸せを感じるやもしれぬ。』
『だが、儂はそれを幸せと認めたくない!』
『…交渉は決裂じゃ』
作中屈指の強者二人のぶつかり合いなだけあって、ただ話してるだけで二人とも迫力が凄い!背筋がゾクゾクする、封神演義でも最も好きな場面の一つだ。
ここで初めて、「聞仲じゃダメな理由」が明かされる。要は、幸福だろうと不幸だろうと、他人の敷いたレールの上を走らせること自体が人間たちにとってよくないということだ。
まぁ、確かにね。どんなに幸福を感じていようと、子供は過保護な親からは引き離して独立させないといけないよね。それが何よりその子のためなんだから。
そして、最後まで読むと、この元始天尊の主張は、聞仲のみならず作中全体を通した封神計画の全容だということが後々わかる。
人間たちを、善悪問わずあらゆる支配者から解放し、敷かれたレールの上を走らせるのではなく、自分たちの意志で道を選び取っていく自由を与えること。ここでいう自由は、良い意味の自由だけではなく、悪い意味もすべて含めた真の意味の「自由」である。
ちなみに原作の封神演義は、神様が定めたレールの上を走らせるために、異分子を排除していく物語だ。だから、漫画の封神演義のテーマは原作のテーマとは全く真逆なんである。この対極さは本当に面白い。作者の藤崎竜は、この封神演義を漫画化するにあたって、原作を読んで、よほど納得いかなかったのか、原作に対するアンチテーゼを描こうと心に決めたのだろう。
とにかく、『封神演義』の16巻,17巻は最高に面白い。
力押しの戦いだけじゃない少年漫画の魅力が、存分に詰まっている。
*1:原作が手元にないので全てうろ覚えでお送りいたします